弘前ねぷたまつりは毎年、8月1日から8月7日まで開催されています。
そもそもは各団体が個々に町内会を練り歩いており、現在のように合同運行していませんでした。それゆえねぷたが2台以上道でかち合うと、道を譲れ譲らぬと喧嘩になり、石ころを投げたり、掴み合い、果ては刃傷沙汰までおきていました。これが「ねぷた喧嘩」というもので、藩政時代から昭和初期まで続いていました。今でもねぷたの肩部分に「石打無用」とあるのはその当時の名残といわれています。
(奥民図彙にある石投無用の文字)
①藩政時代 町内同士の対抗となり、刀剣や竹やりまで持ち出すようになりました。1728年(享保13年)には乱暴を禁ずるお触れが出され、1748年(延享5年)には喧嘩口論を禁止し、「祢ふた流し」は7月6日のみに限定されたそうですが、言うことを聞かなかったようです。
②明治時代 町道場間の対立意識が喧嘩をいっそう熾烈なものにしていったようです。1891年(明治24年)には町道場襲撃事件が起こり、死傷者がでたということです。
③大正時代 上町と下町の対立へと移行しました。1922年(大正11年)には警察官では対処できないということで、半鐘を打って消防団にも応援を求めた「半鐘事件」がおきました。

④昭和時代 秩父宮殿下が1935年(昭和10年)に弘前歩兵第31連隊大隊長として赴任されたことが、喧嘩ねぷた取締りに決定的に影響を与え、以降は喧嘩ねぷたは影を潜めました。1938年(昭和13年)、戦争によりねぷたは一時中断しますが、1947年(昭和22年)に復活し、以降、喧嘩ねぷたは皆無となりました。
⑤昭和26年(1951年)、弘前青年会議所がネプタコンクールを主催・実施しました。これが合同運行の形式へとなるきっかけでした。