◆由来の定説
七夕祭りの松明流しや精霊流しとともに、「眠り流し」(暑さの厳しい、農作業の忙しい夏季に襲ってくる睡魔という、目に見えない魔物を追い払うための行事)は全国各地で行われている行事です。これはこの弘前でも昔から行われていた習俗の一つでした。
その際、燈火なども用いられていましたが、江戸時代に入り燈籠などが用いられ、徐々に手が込んできて大掛かりな美麗なものへと進化し、そして現在の「ねぷた」へと進化してきたといわれています。
◆その他の由来説(ロマンチックですが、裏づけはありません)
ねぷたまつりの由来は諸説ありますが、現在は次の3つの説に重点が置かれています。
【伝説】平安時代初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、敵をおびき出すために大きな人形を作った。(1750年ごろから言われているとされます)
【伝承】1593(文禄2)年7月、藩祖・津軽為信が、京都の盂蘭盆会(うらぼんえ)での趣向として大燈籠を作らせた。(津軽遍覧日記、1792(寛政4)年の資料ですが、信憑性が薄いとされています)
◆初期のねぷたまつり(元禄~享保 1700~1720~1722~)
ねぷたが初めて記録に登場するのは、1722(享保7)年7月6日の弘前藩庁「御国日記」で、5代藩主・津軽信寿(のぶひさ)が紺屋町の織座で「祢むた流」を高覧したとあります。
六日 四半過 織座江 被為成候 御供廻り 例之通
於同所 祢ふた 高覧 被遊候 祢むた 罷出候
順 左之通
一番 本町 親方町 鍛冶町
弐番 茂森町
三番 土手町
四番 東長町 本寺町
五番 和徳町
六番 紺屋町
七番 亀甲町 田茂木町
八番 荒町
右之通 祢むた流 紺屋町より 春日町江 罷通候
屋形様 夜五時過 被遊 御帰城候
「祢むた」あるいは「祢ふた」と記載されているのは、当時「ぷ」という半濁音の表記がなかったためで、当て字をしたといわれています。
尚、四半過(AM11時)から夜五時(PM8時)まで9時間も殿様がご覧になったというのですから、多数の立派な燈籠であったことが想像できます。
実はその2年前の1720(享保5)年7月6日の「御国日記」には、津軽信寿公が夜、報恩寺で「眠流」を高覧したと記載されています。夜ですから燈籠であったと推測されます。
今晩 於同所 眠流 被遊高覧候
この記載は享保7年のそれとは違ってわずか12文字の表記ですので詳細はわかりません。2年後の「祢ふた流し」と同様なものなのかどうかわかりません。ただ、当時の報恩寺境内は藩主の廟地であり、町人はもちろんのこと御家中も格式高いものしか入れないことから2年後のそれとは趣向の異なるものだったのかもしれません。
この行事を観て、いたく感動した津軽信寿公が、参勤交代から戻った2年後の1722(享保7)年に、藩主の命ということで、大々的に12の町会に「祢ふた流し」をするよう町衆に促し、それを高覧したというのがねぷたまつりの始まりかもしれません。尚、この「祢ふた流し」とは水辺に流すのではなく、町内を練り歩くことになります。(以上、松木明知氏著を参照)
現在でも運行そのものに重きが置かれ、元来の悪霊を流すといった行為は衰退していったのはこの頃が始まりなのかもしれません。
◆燈籠流しはいつからか弘前で広まったのか?
四代藩主・津軽信政の時代に、京都から野元道玄が呼ばれました。彼は茶道のみならず神学・兵学・儒学にも通じていたといわれ弘前に大きな影響を与えたとされています。
道玄は1700(元禄13)年、養蚕業の普及や絹織物を広めるべく京都から職人を招いています。数年間で80-90人の京都人を連れてきているそうで、その職場が紺屋町の織座だったのです。彼らは京都の風習である盆燈籠のために、盂蘭盆に燈籠をつくり、それを門前に飾ったと思われます。そして燈籠を飾る時期がねぷた流しの時期とちょうど重なるために、織座の人たちはこの燈籠をねぷた流しで持ち歩く明かりの代わりに使うようになったのではないかと推測されます。
◆町内を練り歩くようになったのはいつからか?
夏の祭りとして、仙台、秋田、松前からも見物人が集まったといわれているのが弘前八幡宮の祭礼(1682~1883)です。
信政公のお声がかりではじめられたこのお祭りでは、城内、町中を踊り練り歩いたとされています。1705年には、若様(信寿公)が御覧ということで4台の山車が出ていたようです。(田澤正氏著より一部参照)
このようにして山車をして練り歩くという文化が1600年後半から1700年前半に根付いていったものと思われます。また、山車の華やかさを町内の豪商らが競ったのではないでしょうか。
◆喧嘩ねぷたとは
山車の華やかさを町会が競ったりするうちに、喧嘩になるものこれまた自然な話かもしれません。
1728(享保13)年、1739(元文4)年には「祢ふた流し」中の乱暴を禁ずるお触れが出たと御国日記に記載されています。さらに1748(延亨5)年には「祢ふた流し」中の喧嘩口論を禁じ、「祢ふた流し」も7月6日のみに限定したと記されています。町人のねぷたは役人の手に負えないくらい賑わっていたということでしょうか。
1775(安永4)年にはついに御家中が町人に刃傷ばたらきを起こし、翌年には「祢ふた」の運行は町内限りと規制しています。町印などを他町に持ち込み、「祢ふた」同士が道で対峙した際に口論の火種が飛び散ったのだと思われます。
さかのぼること1764(明和元)年には御家中が「祢むた」をすることを禁じており、町人と御家中の子供は認められていたようですが、お触れはよくよく破られていたようです。(田澤正氏著より参照)
◆大型化、そして「ねふた」の取り締まり令などが記載される(天明~寛政 1780~1801)
1788(天明8)年には、角燈籠にねむの木等の上飾りをつけた様子が「子ムタ祭之図」(比良野貞彦作)に描かれています。
10人くらいで担がれた燈籠には七夕祭、織姫祭、二星祭などの大きな文字が描かれており、側面には石打無用という文字も見られます。現在のように三国志や武者絵といった描写はありませんし、太鼓やお囃子もみられません。
運行は弘前八幡宮の祭礼にならい、町内ごとで運行され、照明はロウソクでした。
ここに1683年依頼の弘前八幡宮祭礼、眠り流しが融合した様子がわかります。
1793(寛政5)年、大型の「ねふた」が出陣します。幅一丈八尺(5m40cm)、高さ五間(9m)の額だそうです。(「封内事実苑」と「本藩明実録」より)
1801(寛政13)年には「ねふた」の差し止め令(町内運行のみ可)もでています。絶えない喧嘩が理由なのか、1797(寛政9)年からの松前へ警備兵派遣など藩政上の問題なのかは不明です。
◆大衆化と大きさ制限から人形化、再度大型化へ(文化~文政 1804~1830)
文化年間は、次に続く文政年間と合わせて、江戸後期の町人文化爛熟期でした。弘前では、4万5千石から7万石、さらに10万石に昇格したことを機に、天守閣も再建され、城下は華やいでいました。そして、その頃の町民には圧倒的な経済力があり、燈籠の大型化・人形化も行われました。
1813(文化10)年には「ねふた」は3尺以下、太鼓は1尺以下の大きさとし、太鼓はねふたに同行でなければ罰せられるというお触れが出ています。このようなお触れが出るということは大衆化し定着していたことの表れです。(「御国日記」)
1828(文政11)年、津軽信順公は金木屋の出した「人形祢ふた」をご覧になっています(「封内事実苑」より)。町人文化が発達した時代、町人らの様々なアイディアがねぷたにとりいれられたのでしょう。
1829(文政12)年には遂に、津軽信順公の指示で3尺という大きさ制限もうやむやのうちに取り払われています。取り締まる側の奉行も、規則はあれど、お屋形さまには逆らえず大変だったのではないでしょうか。
津軽信順公もまた、五代・津軽信寿公に負けず劣らずねぷたが好きのようで、「竹長屋」という御見物所を整備させています。ここに人形ねぷたへの広がりと、再度の大型化が始まりました。津軽信順公のねぷた好きが後世の弘前ねぷたに大きく寄与したのでした。
また、当初は単純な造りであった人形ねぷたも、徐々にその技術が高まり、やがては組ねぷたとなっていったのではないでしょうか。
◆組ねぷたの発達(幕末 1861~1867)
この頃になって「見送り」「高欄」に該当するものが備わってきました。江戸後期に描かれた平尾魯仙の「津軽風俗画巻」のねぷたまつりの様子を見てもわかるように、組ねぷたは4代藩主・津軽信政の時代、1682(天和2)年の弘前八幡宮祭礼の山車飾りの影響を受けて発達してきたものです。
◆組ねぷたの完成と扇ねぷたの登場(明治~大正 1868~1926)
この頃、ようやく「開き」が考案され、「高欄」と「額」を改良して、華麗な組ねぷたが完成しました。台の上に組まれた「人形」、人形部背面の「見送り」と台部の「高欄」「蛇腹」「板隠し」「開き」「額」からなり、それらが互いに調和し、品よく迫力を感じさせながらも、華麗をさ醸し出しています。
(写真:紺屋町)
扇ねぷたが登場したのはその後の為、伝統のねぷた=組ねぷたといわれています。
その後、藩祖・為信の幼名「扇丸」と末広がりを意味した「開き」を応用して、扇ねおぷたが登場しました。「額」の上に「開き」をつけ、それを扇と結合してできた新しい扇ねぷたは、ユニークであるとともに意外な新鮮さを感じさせました。
弘前は明治維新で混乱期に陥っていました。そんな中、経費も手間もかかる組ねぷたよりも、斬新な扇ねぷたが数の上では祭りの主役の座を占めていったのです。
(写真:紺屋町)
◆現在のねぷたまつり(昭和~平成 1926~)
昭和の中頃になるとバッテリーが普及しはじめ、50年代に入ると発電機も使用されるようになり、照明はほとんどがロウソクから電気に移行していき、回転装置や昇降装置も登場しました。1980(昭和55)年弘前ねぷたは青森ねぶたとともに、重要無形民俗文化財の指定を受けました。現在では扇の曲線や横幅も長い年月をかけて洗練され、バランスのとれた扇ねぷたと伝統ある華やかな組ねぷたが、津軽の短い夏の夜に悠々と城下町弘前を練り歩きます。
◆子どもねぷた
現在は子どもねぷたというと、小型の扇ねぷたを指すようになりましたが、かつては子ども専用のねぷたがありました。今でも、小扇や金魚ねぷたは見られますが、女の子が持つ巾着ねぷたはほとんど姿を消してしまいました。金魚ねぷたが健在なのは、藩政期の津軽で飼育されていた「津軽錦(つがるにしき)」という金魚の形を模した歴史性と、人形ねぷたの骨組みの基本構造を示しているという製作技術面からの位置づけ、この2点の理由によると思われます。
参照:
「ねぷた」-その起源と呼称- 松木明知氏著
史料にみる「ねぷた」 -叱られてばかりいた昔のねぷた- 田澤正氏著
津軽ひろさき検定公式テキストブック