重要無形民俗文化財 「弘前のねぷた」を制作・運行している団体が集う会です

文献に見る弘前ねぷた

■文禄2年(1593年)  津軽為信公が京都の津軽屋敷で盂蘭盆会の趣向として二間四方の大灯籠を運行する。[1]
■天保2年(1682年)  4代藩主津軽信政(のぶまさ)公の時代、弘前八幡宮祭礼の際、神輿の露払いとして山車が始めて運行される。のちの弘前の組ねぷたや各町内の運行順序に影響を与えたとされる。
■享保5年(1720年)旧暦7月6日(新暦8月9日)  5代藩主津軽信寿(のぶひさ)公が報恩寺(弘前市新寺町)で「眠流」を高覧される。[2]
■享保7年(1722年)旧暦7月6日(新暦8月17日)  5代藩主津軽信寿(のぶひさ)公が城下の織座で「祢ふた流」を高覧される。順番は1番=本町・親方町・鍛冶町、2番=茂森町、3番=土手町、4番=東長町・本(元)寺町、5番=和徳町、6番=紺屋町、7番=亀甲町・田茂木町、8番=荒町。紺屋町から春日町へと向かう流れで、信寿公は夜五つ(20時)頃に帰られた。[3]
■享保12年(1727年)  覚書を記す。財政難につき「ねむた」仕組踊りの高覧を中止する。また、弘前のみならず、青森と鯵ヶ沢の両浜での祭礼も神輿だけとする旨を、弘前ならびに青森と鯵ヶ沢の町奉行と寺社奉行へ手紙で通達する。[4]
■享保13年(1728年)旧暦7月6日(新暦8月11日)  覚書を記す。御家中の若者や家来が神社の門前境内などでお盆の風流踊りや豊作祈願、虫送り、雨乞いなどのために踊りをする場所や、納涼する場所にて悪戯があるようだ。先日も子供が持つ灯籠を切り落とすといった事件があったので、今後は取り押さえるのでしないように。 また、今晩(旧暦7月6日)は弘前中の子供が「祢むた」流しをする夜であるので、混乱無い様に大目付へ申し伝える。[5]
■享保14年(1729年)旧暦7月1日(新暦7月26日) 「祢ふた」の儀は勝って次第、古来の通り。と特別な制限もなく気ままに行われいていた。[6]
■元文元年(1738年)  6代藩主津軽信著(のぶあき)公が弘前八幡宮祭礼で辰巳櫓(現・天守)で山車を高覧する。
■元文4年(1739年)旧暦7月6日(新暦8月10日)  町中子供「祢ふた」流しの時期ではあるが、礫を打ち投げ、木刀で打ちたてる様なことの無い様に、また口論もしないように町奉行へ伝える。[7]
■延享5年(1748年)旧暦7月4日(新暦7月28日)   町々で「祢ふた」流しが行われ、町内に大勢集まっているようであるが、御家中入り混じって喧嘩口論しているようである。このようなことが無い様に申し付けるよう指示する。また、旧暦7月6日以外は「祢ふた」を硬く禁じるものとする旨を町奉行へ指示する。[8]
■宝暦6年(1756年)  7代藩主津軽信寧(のぶやす)公が三の丸・御屋敷前で町々の祢ふたを高覧する。
■安永4年(1775年)旧暦7月10日(新暦8月5日)  7月4日の「祢ふた」において腕首を切り落とす刃傷沙汰が発生した。[9]
■安永5年(1776年)旧暦7月2日(新暦8月15日)  「祢ふた」は町内限りの運行とし、他の町会まで町印などを持参し口論の種をまかないように。[10]
■天明8年(1788年)   比良野貞彦著「奥民図彙(おうみんずい)」には角灯籠に飾りがつけられた「子ムタ祭之図」が描かれ、七夕祭、織姫祭、二星祭などの文字が記載されている。[11]

(比良野貞彦著 「子ムタ祭之図」「奥民図彙」天明8年(1778年)国立公文書館内閣文庫蔵)

(比良野貞彦著 「子ムタ祭之図」「奥民図彙」天明8年(1788年)国立公文書館内閣文庫蔵)

■寛政5年(1793年)旧暦7月1日(新暦8月7日)  「祢ふた」は当年、お堀端にて幅一丈八尺(5m)、高さ五間(9m)の額などが出ていた。[12]
■享和元年(1801年)旧暦7月  「祢ふた」を厳しく差し止め出させなかったため、お盆中も踊り子不足で寂しかった。[13]
■文化8年(1811年)旧暦6月27日(新暦8月15日)  「祢ふた」流しを厳しく仰せ付けているにもかかわらず、大型のものをつくり、喧嘩口論しているので、このようなことが無い様に御家中、寺社・町中に申し付けておくように。[14]
■文化10年(1813年)旧暦6月28日(新暦7月25日)  3尺(1m)以上の「祢ふた」はたとえ子供であっても厳しく取り締まる。太鼓は1尺(33cm)以下とすること。また、「祢ふた」に付き添わずに太鼓を打ち鳴らす行為を禁じる。[15]
■文政11年(1828年)旧暦7月7日(新暦8月17日)  10代藩主津軽信順(のぶゆき)公、金木屋の「糸取り人形祢ふた」(マユから糸を紡いでいる女性の人形型ねぷた)を高覧する。[16]
■天保元年(1830年)旧暦7月5日,6日(新暦8月22,23日)  和徳町のねぷたが、紺屋町の端を通り抜けられないほど大型で立派。見物には各地から訪れており、黒石御広敷様(黒石藩からきた津軽順徳(ゆきのり)公(通称=左近将監督(さこんしょうげん))、後の11代藩主津軽順承(ゆきつぐ)公)も見物された。[17]
■天保13年(1842年)旧暦6月12日(新暦7月29日)  3尺以上の大きさのものや手の込んだ「祢婦た」を禁止する。大振りの太鼓は使用しないこと。お盆踊りの衣装も派手にしないこと。白昼の踊りもしないこと。[18]
■弘化2年(1845年)  「祢ふた」運行で差し渡し1尺5寸以上の太鼓を禁止する。[19]
■安政3年(1856年)旧暦6月30、7月1日  「祢婦た」について、御家中の壮年の子弟ならびに召使も入り混じった喧嘩口論や、他町にまで出向いての運行などせず、また大型の「祢婦た」ならびに手の込んだものはせず簡素にし、一人持ちサイズのもの以外は出さないように。大振りの太鼓もまたしかり。[20]
■安政7年(1860年)旧暦7月6日(新暦8月22日)  あちこちで「ねふた」喧嘩が起こっている。元来、小さい「祢ふた」ばかりなので深手の傷を負うことはないが、土手町、松森町でも喧嘩があった。[21]
■文久元年(1861年)  平尾魯仙がねぷたについて絵を示す。(担ぎ提灯、担ぎねぷた、担ぎ太鼓)[22]。無提灯、覆面での通行を禁止する。

(平尾魯仙 津軽風俗画巻 文久年間)

(平尾魯仙 津軽風俗画巻 文久年間)

■慶応3年(1867年)旧暦6月27日(新暦7月28日)  「祢婦た」について、何度も申し伝えているが守られていない。喧嘩口論は不埒の至りであり、決してしてはならない。大型のもの、手の込んだものは禁じ、一人持ちの「祢婦た」のみとするように。近年「組祢婦た」と名づけ、壮年のものが先立ちとなり、金銭を町ならず他の町までねだりに出るなど聞こえてくるので厳重に差し止めるよう申し付ける。[23]
■慶応3年(1867年)旧暦7月6日(新暦8月5日)  土手町の名主宅にて瓦町の人々が大型の「祢ふた」を完成させた。覚仙町にて30人持ちくらいの大型の「祢ふた」が名主によって作られた。和徳町では、子供の「組祢ふた」だが、2-30人持ちのものが作られ、これらを運行したい旨の申請が出された。しかし、昨年も当年も作柄がよくないため、町々が大型の組祢ふたを作るのは不埒の至りにつき、早速差し止めを行った。もともとは御家中の面々からの要望で町の名主が作ったものであったので、彼らに取り壊すよう指示した。しかし名主宅の裏を借りて「祢ふた」をつくっていた御家中はそれを承諾しなかったため、町の役人が出向いて製作中の「祢ふた」を取り壊してしまった。[24]
■明治6年(1873年)7月5日  従来、七夕星祭りの節「ねふた」と称して種々の偶像を持ち出し、市中を徘徊しているが、これは古の蝦夷のするものであり、野蛮の余風である。ましてや群集となり闘争にまで発展し、裁判沙汰になっておりよくないことである。先般、五節句が廃止されたので、このような「ねふた」を行わないようにし、これを周知すること。[25]
■明治15年(1882年)8月2日  明治6年(1873年)からの「ねふた」禁令止を解き、「ねふた」取締規則を制定する。第1条「侫武多」を出すものは以下を遵守し、3人以上の役員をおき、闘争および公衆の妨害などを行わない旨明記し所轄の警察署へ許可を取ること。1)高さ1じょう8尺以上、幅1丈3尺以上のものは許可しない。2)高さ1丈以上~1丈8尺以下、幅8尺以上~1丈3尺以下の物は、申請すれば許可する。3)高さ1丈以下、幅8尺以下の物は申請するに及ばない。4)代表は責任を持つこと。第2条 警察分署においては以下を遵守すること。1)第1条を守ること。2)解かりやすいところに「許可」証を掲載すること。3)「侫武多」が2台、往来で出会った際は、各々の役員が穏便に交渉するか、警察官に従うこと。 第3条 その土地の状況に応じて警察官はこの規則を柔軟に適用させる。 [26]
■明治21年(1888年)  上町と下町のねぷた喧嘩から、北辰堂襲撃事件が発生する。
■昭和10年(1935年)  秩父宮殿下が歩兵第三十一連隊第三大隊長として昭和11年まで着任されたことが「ねぷた喧嘩」の取締りに決定的な影響を与えた。
■昭和13年(1938年)  戦争の時局を理由に弘前警察署が「ねぷたまつり」を禁止する(昭和22年に復活した)。
■昭和19年(1944年)  戦争の士気高揚のため、ねぷたを運行する。
■昭和22年(1947年)  天皇行幸を契機に、戦争で中断していた「ねぷたまつり」が復活した。  日中戦争が始まった翌年の昭和13年から21年までの9年間中断していた。
■昭和26年(1951年)  弘前青年会議所が創立。同年、弘前青年会議所主催でネプタコンクールを実施した。これが合同運行の形となっていった。
■昭和28年(1953年)  弘前高校創立70周年記念式典、弘高祭前夜祭でねぷた運行開始する。
■昭和29年(1954年)  弘前青年会議所が第1回ネプタ囃子講習会を開催(現・ねぷた囃子講習会)。
■昭和33年(1958年)  名称を「弘前ねぷたまつり」とする。
■昭和44年(1969年)  竹森節堂氏が青森県文化賞を受賞する。

竹森節堂 昭和41年作

(竹森節堂「ねぷた風物詩」昭和41年作、弘前市立博物館蔵)

■昭和46年(1971年)  陸奥新報社の創立25周年記念で、棟方志功がネプタ絵を描く。
■昭和55年(1980年)  「弘前のねぷた」が国重要無形民俗文化財に指定される。[27]
■昭和58年(1983年)  弘前ねぷたが始めて海外運行する(アメリカ・シアトル市)。
■平成8年(1996年)  弘前ねぷた囃子が「日本の音風景100選」に認定される。
■平成18年(2006年)  弘前ねぷたまつりが「高円宮殿下記念地域伝統芸能」を受賞する。
出典または参考文献 [編集]

1^ 津軽遍覧日記(寛政四年(1792年)木立要左衛門著)※但し、この日記は作成が約200年後であり、登場人物の年代が史実と異なっていたり、実在の証拠がない人物が書かれたりしており、津軽為信を称えるためのフィクションではないかといわれており、信憑性があまりない。
2^ 弘前藩庁日記(御国日記)
3^ 弘前藩庁日記(御国日記)
4^ 弘前藩庁日記(御国日記)
5^ 弘前藩庁日記(御国日記)
6^ 弘前藩庁日記(御国日記)
7^ 弘前藩庁日記(御国日記)
8^ 弘前藩庁日記(御国日記)
9^ 弘前藩庁日記(御国日記)
10^ 弘前藩庁日記(御国日記)
11^ 「奥民図彙」新編弘前市史
12^ 「本藩明実録」
13^ 「封内事実苑」
14^ 弘前藩庁日記(御国日記)
15^ 弘前藩庁日記(御国日記)
16^ 「封内事実苑」
17^ 「封内事実苑」
18^ 弘前藩庁日記(御国日記)
19^ 弘前藩庁日記(御国日記)
20^ 弘前藩庁日記(御国日記)
21^ 「鶴の巻」(弘前市立図書館)三谷句仏翁著
22^ 「津軽風俗画巻」
23^ 弘前藩庁日記(御国日記)
24^ 弘前藩庁日記(御国日記)
25^ 「青森市沿革史」
26^ 「青森県警察史」
27^  文化庁データベース http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=302&item_id=4

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